D1968年霧ヶ峰高原・車山・1969年西穂高・夜叉神峠 | |
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1968(S43)年5月私かんちゃんは22歳、友達と霧ヶ峰にハイキングすることになった新宿深夜11時45分初の中央本線夜行の鈍行に乗車そして茅野下車、早朝茅野駅始発のバスで中山道を走り和田峠へ、そのころビーナスラインは工事中だったので和田峠から歩いて霧ヶ峰へ、朝の霧ヶ峰から初めて見た雲海の素晴らしい眺めは50年を経た今でもはっきり覚えている、 | |
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和田峠へ向かう途中バスのタイヤがパンク,山中にて立ち往生、替えのバスが来るまで待つことになった。 | |
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早朝の和田峠、S43年当時、ビーナスラインは工事中で”ハッパ作業中立ち入り禁止”の看板があり、舗装前の砂利道だった。 |
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下の写真は車山から白樺湖に下山の途中、現在のようなリフトや観光道路は無く車山の頂上から白樺湖畔のバス停まで長い道のりを徒歩で下ってきた、両足の膝がカクカク笑った記憶がある。 | |
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白樺湖畔にて昼食、現在の池の平ホテルはまだ無く建設工事中だった。現在の《白樺湖プラザ21》辺りにバス停があり、此処で昼食を作り、 バスが来るまでのんびり過ごした。長野の霧ヶ峰・車山はとても良い思い出だ。 | |
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当時使用していたOlympusの35mmカメラ、 |
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■S44年夏お盆休み、上高地から西穂高へ | ||||||||
写真の後方は当時の西穂高山荘、その後H2年に火災で焼失した、現在の建物はH4年に再建されたようだ上高地(1,510m)のウェストン碑前を早朝二人で出発して標高差900m弱の西穂高山荘(2,385m)まで5時間以上掛かったような記憶だ。現在は新穂高ロープウェイがあるので岐阜県側の新穂高温泉から楽に登れる様になり西穂高も近くなった。 | ||||||||
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S44年当時の西穂高山荘前にて。当時は宿泊の登山客は少なかったので夏のシーズンでも現在のようにギュウギュウ詰めでは無かった。それにしても健脚ではない彼女がよく登った、翌日の下山時に山中で西穂山荘のオヤジさんに会い色々山の話を聞きながら上高地まで戻った記憶がある、山荘のオヤジさんは背負子一つで松本まで買い出しに行くと言っていた。 | ||||||||
当時、彼女は足が強くはなかったが度々山へ行く内に最近は私より健脚になったようだ。 | ![]() |
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■S44年秋夜叉神峠へ | ||||||||
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そして1970年結婚、社命で日産販売店に出向、1966年に発売の日産SANNY1000cc (B10)の販売促進応援のため臨時セールスマンになり18ヶ月間の営業所勤務。 ・1975年日産自動車(株)を依願退職・福島市へ転居 ・仙台の赤門柔道整復師専門学校へ入学、柔道初段に ・国家試験受験後、国家資格(柔道整復師免許)取得・福島市の骨接ぎの師匠 渡邊 一先生に弟子入り関節の亜脱臼微矯正手技、骨盤矯正手技を伝授頂いた。 ・町田市に転居、町田市保健所に開院申請して1978年町田市忠生1丁目に 【高橋整骨治療院】開院。 ・1978年長女が小学校入学・長男が幼稚園入園・次男1才・・・子育て・・・ と忙しくなり・・・山旅は暫くお預けになった。 |
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